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    好きになった隠岐の島
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    コード: OKI7000001

    好きになった隠岐の島


    好きになった隠岐の島                                  
                         利光国高

     ゴールデンウィーク明けの5月11日から2泊3日の旅に出た。島根県の離島、隠岐の島に向かって旅に出た。電動車いす利用者を含んだ10名程度のコミュニティツアーである。 
    コミュニティという志を胸に秘めて、和の絆づくりの旅を実践したかったのである。私は交通バリアフリー協議会の解散手続きを終えて、一般社団法人日本電動車いす交通協会を立ち上げた。この団体と隠岐の島観光大使のコラボによる初の企画が、皆様のご協力を得て、志ある旅として実現できた。 
     この協会には、三本柱がある。①もっと良い(小型軽量、長時間走行、安全、快適)電動車いすの製作。②正しい運転操作・マナー・ルールの教育(電動車いす利用者へ)。③全ての障害者、高齢者(電動車いす利用者や知的障害者も含めて)が自由に対話できるコミュニティ環境の創成。
    この三本柱を通して、障害者、高齢者の社会参加を推進する。このうち、③のコミュニケーションバリアフリーに理解がある社会福祉団体(当協会会員)の協力があって、このツアーは成功した。私が友人を通じて隠岐の島の観光大使とご縁が出来たことや福祉団体の幹部の方が、たまたま島根県出身だったことなど不思議なご縁で繋がった結果、隠岐の島・芸術と自然にふれるユニバーサルコミュニティツアーとして、電動車いす利用者も高齢者も健常者も共に仲良く楽しく旅することができた。
    一般的な観光旅行ではなく、かといって「鶴瓶の家族に乾杯」のように場当たり的なコミュニティでもない、観光の中に地元の人との交流を混ぜて絆を創るという社会ミックスの「利ちゃんの絆に乾杯」なる旅を世に先駆けて実践したのである。その結果、隠岐の島へのコミュニティが生まれた。これを機に、自立移動支援の視点から改善を重ね、それが隠岐のバリアフリー化を進め、将来、島の観光誘客に繋がればと思っている。
     隠岐の島を、障害者ウェルカムの状態にまでバリアフリー化すれば、他の離島のバリアフリー化は必ず追随してくる。 
    私は内地で難しい場所といえば、急峻な山道で、旅人泣かせの天下の険の箱根地域だと思っている。箱根は地形的にバリアフリー化に最も逆らっている自然の要塞なのだが、周辺に魅力的な観光拠点が多く、そこに連動して行きやすい箱根の良さがある。交通手段も選択肢が多く、従って自由に手段を選ぶことが出来る。年間観光来客数が約二千万人の日本を代表する観光地として君臨しているのは人を含めたサービスの質からして当然かもしれない。しかし隠岐には箱根とは一味違った飾らない自然がある。透明感のある青い海や断崖や数々の奇岩がある。 
    自然の魅力は比較すべきではなく、各々に甲乙つけ難い素晴らしい魅力がそこにある。
     観光といえば地理的に東京、京都間が圧倒的に強く、富士山の眺望も観光客にとって大きな魅力である。東京、京都間、即ち今の都と昔の都の間にある観光地は、それだけで有利であるが、それ以外の観光地では何らかの誘客の工夫が必要である。更に離島となると地理的なハンデを超えてでもそこを訪れたくなるような個性的な魅力をアピールする努力が求められる。
     一般的に都会人が旅行するのは、日常の雑踏、多忙、ストレスなどから逃れて、非日常の世界に身を置き、命の洗濯をしたいからだろう。だとすれば旅の魅力は、温泉、グルメ、景観などが大きな要素だろう。しかしもう一つ忘れてはならないのが、人との出会いである。宿だけではなく住民全体のおもてなしの心に磨きをかけ努力している所へ何度も行きたくなる。
    例えば温泉の無い所は、趣向を凝らした海水風呂を作るのも面白いし、グルメでは、市場に出回らない食材の料理を考案して、ブランドとして育てることが人気の起爆剤になるかもしれない。しかし離島は都市部には無いあるがままの素晴らしい自然の景観を持っている。それを大事に守り続けると同時に島民の温かくて細やかな人情を観光客にも積極的に差し出し、島民全員の外来者に対するおもてなしの心として島内に浸透させていくことが、離島の魅力を強く輝かせることになる。
     その昔、隠岐諸島はユーラシア大陸の縁辺だった。その後、湖底にあった時代、深海の底の時代、島根半島と陸続きになった時代を経て、約一万年前に現在の離島になった。大陸から切り離されて離島になったことで、人間を含めた独特の生態系、自然の風土、独特の文化、芸術、信仰などが生まれたのだろう。
    隠岐諸島は島根半島の北、40~80kmの日本海に点在する4つの有人島と大小180余りの無人島からなる島々で、島後水道を境にして本州側の3島を島前(どうぜん)、 知夫里島(知夫村)、中ノ島(海土町)、西ノ島(西ノ島町)から成る群島、後ろ側を島後(どうご)と呼び島後島(隠岐の島町)である。
    その隠岐諸島は2009年に「日本ジオパーク」(科学的に見て重要な、或いは美しい地質遺産を有する自然公園)に認定されている。私は素直な気持ち、先入観を捨てた無の心で隠岐の島を歩き、その薫りを感じてみたい。そうしたら、島の恵みとは何か、アイランドテラピーとしての「癒し」や「健康」とは何かが見えるかもしれない。個性豊かな島影、木々や花や羊歯などの植物、石や岩やきれいな水、海をも含めた豊かな自然、限られた面積の中で、しかも厳しい気象条件下で、島民の営みが育て上げてきた人情味溢れる風土、ミネラルやオゾンをたっぷりと含んだ風、空気などは、都会人が最も憧れるものである。
    朝9時55分ANA813便で羽田空港を飛び立った。前日までの雨や風、雹や竜巻という悪天候とはうって変わり好天に恵まれた。僅か1時間20分のフライトで米子空港(鬼太郎空港)へ到着した。そこから先ずはJRの米子駅で車いすの方を拾った。このバスのトランクの寸法に行き違いがあって電動車いすがそのまま収納出来ず、少し分解し折り畳んで何とか収納した。 
    バス会社の電動車いすや障害者に対する認識の甘さが出た。空港や鉄道に比べて観光バスや港や船のバリアフリー化は遅
    れている。時間的なロスが出たが、なんとか初日のメインである足立美術館に到着した。先に昼食をということで美術館に隣接した「どじょう亭」自慢のどじょう定食で胃袋を整えた。 
    とはいっても、私自身は泥鰌を食べたという気分にはならなかった。私が感じたのは、店内をもっと明るくして、「泥鰌カレー」や「泥鰌スパゲティ」のような現代的メニューの料理を食べさせてもらいたかった。
    一服して隣接した安来節演芸館に入った。館の中に入って驚いた。あまりにも立派な舞台だったからである。お客の入りは金曜日のせいか疎らではあったが、一所懸命の演技に思わず聞き入ってしまった。ただ、しげさ節も何十種類もあるとの事だったが、あまり多種あると覚えようという気にならず、一般の観光客には馴染みにくい民謡だなと感じた。
    どじょうすくいの踊りにしても、ほんとうに泥鰌を捕ったことが無い人が多くなっている現代においては、昔、喝采を浴びた踊りの動作も現代の方には理解され難くなっているのではないだろうか。そんなことを考えながら美術館に向かった。
     この足立美術館は、米国の日本庭園専門誌「Sukiya Living(数奇屋リビング)/ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」が全国850ヶ所以上の名所旧跡を対象に実施した「2011年日本庭園ランキング」において、京都の桂離宮を抑えて、9年連続庭園日本一の栄誉に輝いた。島根県の名誉であり、自慢すべきことである。ちなみに2位が京都の桂離宮、3位は香川県の栗林公園、4位福井県の養浩館、5位京都の無鄰菴である。
     この専門誌は、米国在住のダグラス・ロス氏が日本庭園を世界中に紹介するために、1998年に創刊した英語の隔月刊誌で、大学や図書館などの教育関係者、造園関係者ら、英語圏を中心とする世界37ヶ国の人々に親しまれているものである。
     ただ「大きい」とか「有名」であるだけの庭園よりも、ほんとうにゆったりとした美しい空間に人々の目を向けようと、日・米・豪の専門家たちが日本全国の日本庭園を調査し、庭そのものの質、建物との調和、利用者への対応などを総合的に判断し順位がつけられている。ここでは絵画は勿論、世界が認めた日本一の庭園をじっくりと鑑賞したいとの期待が膨らんだ。
     心を静めながら展示通路を進むと、すぐに大きなガラス窓越しに端正に整備された苔庭が飛び込んできた。更にゆっくりと回り込むと眼前にぱっと広がった青い空と白い砂と若葉の輝き、この落ち着いた美術館の建物の風情を一層引き立てるように自然の野山を借景に、まさに遠近両景が見事に一体化したスケールの大きな枯山水、和風庭園の堂々たる威厳としなやかさを見せつけられて圧倒された。そこには聖なる薫りが漂っていた。
    次の庭の姿を想像しながらアプローチを進んでいくと、その人に歩調を合わせるかのように庭の表情も次第によく見えてきた。庭の表情の変化と同じペースで鑑賞者の心を次第に格調高く誘導し、最後は美術館らしく自然を取り込んで絵にしてしまう。時間と空間の要素を巧みに取り込んだ素晴らしい庭だった。 
    中庭を経由して池庭、そして「生の絵画」に感動した。
    館の窓がそのまま額縁に、そしてその中に、季節或いは時とともに変わってゆく枯山水の庭を見事に切り取っていた。その白砂と濃淡の緑の中に小さな滝が確りとその存在感を見せていた。しかし庭全体の風情は少しも切り取られずに縁取り以上の空間を感じさせる大きな表現だった。
    それはあたかも無限の空間を優雅に表現した一幅の山水画であった。この庭園の構図の中に自然の静寂さまでも取り込んだ生の絵画に四季折々の色彩を重ねて想像させるそのアイデアに拍手喝采だ。この構図はまさに人工と自然の完全な調和以外の何ものでもない。自然をより自然に表現した白砂青松庭を眺めて、その借景を含めた庭園全体の構成センスに感動した。その余韻を胸に納めて、心ときめかせながら展示室へ入った。
    足立美術館の日本画コレクションの中核となっているのは、何といっても質、量ともに日本一を誇る横山大観の作品120点である。その他、地元の安来出身の河合寛次郎の陶芸作品や料理を芸術の域にまで高めた北大路魯山人の陶芸、林義雄や鈴木寿雄らの童画など近代日本画を中心に展示されていた。
    一方、2010年に、美術館開館40周年を機に、アートシアターを併設した新館をオープンさせていた。現代日本画が中心の展示で、美術界の次世代をしっかり見据えていた。
    私に心洗われる時間と空間をくれたのは、やはり横山大観の絵だった。明治元年生まれの大観は岡倉天心、橋本雅邦らの薫陶を受け、新しい日本画の創造に邁進した。大正12年には水墨画「生々流転」を、昭和に入って、「紅葉」など豪華絢爛な作品を、そして昭和15年、戦時意識の高揚期に日本精神の象徴たる作品を力強く描き、戦後は一転、穏やかな自然を描いた。
    特に昭和15年(1940年)は、彼の画業50年の節目の年になり、更にまた、その年は紀元2600年に当たるということで、全精魂を傾けて描いたのが「山に因む十題」「海に因む十題」の二十篇だといわれている。彼は絵の巧拙よりも気持ちを見てほしい、日本人の誰もが持っている筈の気魄を絵に感じてくれればよいとの意を示してきたが、それをはるかに超えた清らかな人間性が感じられる気宇壮大な素晴らしい作品たちだった。 
    時代の進展とともに人も成長し、その人の絵も人と共に進化している。やはり絵画は立派な人間性が根底になければ、立派な作品は生まれないのではないかと思った。
     その後、美術館からバスで50分くらい走っただろうか、七類港には充分余裕を持って着いた。七類港から16時50分発の高速船に乗って島後の西郷港へと向かった。その高速船への乗り込みには、タラップがバリアフリー化されていなかったため、少し手間取った。さすがに船のスピードは速かったが、波がやや高く揺れや衝撃も大きかったので、乗客はトイレに行くくらいしか船内の移動は出来なかった。フェリーの方が安定して航行できるけれども時間が倍以上もかかるのが難点で、高速船を選んだ。
     つい昨日まで関東では竜巻の発生など不安定な気象状況下で、風雨が強かったが、本日は「天気晴朗なれど 波高し」という海路の状況だった。船中では船酔いを紛らわせる面白い娯楽がなにもなく、ただひたすら走る船のエンジン音を聞きながら、じっと海を見ているだけの旅で、退屈な1時間だった。
    予定通り18時過ぎに西郷港に到着した。西郷港から宿まで街の姿を見ながら船酔いの気分転換に歩いてみた。隠岐の島の夕暮れ時の海風は肌寒く感じた。橋に差し掛かった時、船溜の停泊漁船の磯の香りに、わが故郷門司港の船溜を思い出した。 
    橋の真ん中で、神社と仲良く船溜を見つめているホテルを確認した時、その故郷への懐かしさが私の船酔い気分をきれいに拭い去ってくれた。新鮮な海風を思い切り吸い込むと身体がしゃきっとした。
    ホテルはバリアフリー化が遅れてはいたが、車いす利用者に、愛情を持って丁寧に対応してくれたことが嬉しかった。隠岐の島が観光誘客増加策を考える時、バリアフリー化は外せない大切なテーマである。しかし設備等の改善を急ぎすぎる必要はない。一番大切なことはおもてなしの心を島民みんなが持っていることで、この優しさが島を訪れる旅人の心を癒す。
    宿の10階の食事処からは程よい角度で港の全貌が見えた。西郷港の湾の入口の幅はわずか200mと狭く、湾の中は幅が2km以上もある巾着形の静かな港湾だった。その狭い湾の入口を白い船が静かに抜けていこうとしていた。
    料理は鯵やイカ、たこ等の魚が新鮮で美味しかった。特に海草の「あらめ」や赤、黄、紫など色鮮やかな「ひおうぎ貝」、にいな、黒雲丹など、この島独特の食べ物に出会えて満足した。
    二日目は、隠岐ジオパーク戦略会議が提案した「隠岐の島 芸術と自然にふれる ユニバーサルツアー」を基に一畑トラベルとコミュニケーションネットワークと一般社団法人日本電動車いす交通協会が協力して実行した誰もが参加できるコミュニティツアーで、地元の人との交流の絆をつくろうよという楽しみな行程にマイクロバスで出発した。
    朝ホテルを出てすぐに玉若酢命神社に着いた。隠岐の島町下西にあるこの神社は、隠岐国総社で旧社格・県社・式内社(小)、創建は不詳、本殿の様式は隠岐造茅葺である。古くは若酢大明神と称していた。社伝では、日本武尊の父、景行天皇(100年頃)が隠岐国に遣わした大酢別命の御子が玉若酢命で、この島の開拓に係る神とされている。当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家は玉若酢命の末裔だとされ古代の国造を称した。
    祭神の玉若酢命は記紀には全く登場しない地方神で、その語義は明らかではない。島の北西部にある水若酢神社と地理的条件、歴史的条件等がよく似ていることから、両社祭神に共通する「ワカス」はこの島の開拓に係る重要な意味を持った語であったと推測されている。「日本の神々・神社と聖地・NO7山陰」にはその様にある。その正面に立つと右手に隠岐三大杉の一つで、国指定天然記念物の八百杉があった。痛ましくも一部が折れていたが、長くて太い数本の木に支えられて、このご神木は千手観音ならぬ千手金剛力士像の如く力強く、気高く太い枝を天に突き上げていた。これが樹齢二千年のパワーかと驚いた。
    随神門、拝殿、本殿はいずれも国指定重要文化財で、拝殿の注連縄の大きさに感動した。また神主の億岐家の三つの玄関にちょっぴり人間差別を感じ、神主の庭になぜ佛面竹か不思議に思った。ここに律令時代、役人の旅行時の身分証だった駅鈴と倉印が伝わっている。駅鈴は全国で2個しかない貴重なものだ。
    新緑の中をコミュニティツアーが走ってゆく。やがて銚子ダムにてトイレ休憩だ。ダムの水深が56メートルを示していたが、思ったより深いのに驚いた。更に山道を進んでゆく。やがて9本の株立ちの杉「かぶら杉」を見つけた。確かに巨大なかぶらのように見える立派な樹だったが、じっくり見る間もなく走るバスの中から眺めながら参拝して失礼ながら先を急いだ。
    そのまま細い山道を走り続けて、ついに隠岐三大杉の三つ目の杉、布施の岩倉神社のご神体、樹齢八百年の古杉、乳房杉に辿り着いた。地上10mのところから20個以上の鍾乳石状の「乳根」が下がっていた。また島内観光の最中にあちこちに長方形の岩がむき出しになっている山肌を見かけたが、それらは隠岐の島町に古くから残されている巨木信仰、巨岩信仰の原点ではないかと思った。隠岐諸島には有史以来早くから人が住み始め、その頃の信仰の形がきっと今も続いているのだろう。だから島には140以上の神社が存在するのではないだろうか。
    それは島民の生活の要素、衣、食、住に、樹木や岩や水が密接に関係していたからだと思うのである。
    更に進んで、隠岐の島町の最北端の岬の白島海岸展望台にやってきた。この岬一帯の海岸線はアルカリ流紋岩の白い岩肌とエメラルドグリーンの海、これは日本では他には無い風景だ。またここはオオミズナギドリの繁殖地でもある。じっと海を眺めていると一瞬海外にでもいるかのような錯覚に陥った。
    駐車場の躑躅の花が群れて連なって美しさを競っていた。そんな精一杯咲き輝いている躑躅を残して水若酢神社に向かった。水若酢神社は隠岐の島町郡(こおり)にあって、その主祭神は、水若酢命、社格は隠岐国一宮、式内社(名神大)、旧国幣中社・別表神社である。本殿は国指定重要文化財、創建は未詳、社伝では仁徳天皇時代(313~400年)の創建だといわれている。
    大宮司の忌部氏は天分年間(1532~1555年)には隠岐国造の隠岐宗清の支配に対して地元勢力を見方につけ反抗運動を起こした。幕末には社内に私塾「膺懲館」を設け尊皇攘夷を広めた。寛永15年(1638年)以降、松江藩預かりの隠岐は、慢性的食糧難になっていたが、松江藩の救済策は無く、島民は怒った。元冶元年(1864年)隠岐防衛で隠岐国郡代の枝元喜左衛門が入港船への立入時、船内に帯刀を忘れ、隠岐の島のために尽力しない松江藩への信頼は失墜した。慶応4年(1868年)学校設立反対の隠岐郡代、山郡氏を隠岐から追放した。一瞬ではあったが隠岐の島が自主統治を勝ち取った。隠岐の島民の尊王攘夷の思想がこの隠岐騒動の根底にあった。
    神社にお参りする前に、神社裏の五箇創生館にてランチブレイクだ。田舎そば定食、それはつなぎなしの隠岐そばとばくだんおにぎり2個とおかず付の隠岐らしさが溢れた素朴なランチだった。この創生館では映像の中で、奇岩、ローソク島の落日や夜を徹しての古典相撲、人情相撲、迫力ある牛突き等魅力の数々を見せてもらった。実物は次回の楽しみに残しておこう。
    午後は一転して華やかな石楠花園に入った。山の斜面一帯に咲き誇る一万本の石楠花は圧巻だったし、見事でもあった。
    このような石楠花を見るのは私自身初めての経験だった。
    次に向かったのが「仁万の里」という福祉施設だ。ここで隠岐の島の福祉施設の概要、障害者支援の現状などをお話いただき、障害者の自立や福祉サービスなどについて懇談をした。休日のため実際の作業を拝見できながったのが残念だった。
    今までは健常者が高齢者や障害者に何かをしてあげる、或いは助けてあげるといった不対等な関係だったが、今後は健常者と同様に高齢者同士、或いは高齢者と障害者、障害者同士などの横のつながりを意識して、誰もが対等に、平等にそして自由にコミュニケーション出来るような世の中にしたい。
    意外にも隠岐の社会福祉法人は、離島に対する補助金などの優遇措置があって、財政上は裕福な部類に入るのではないかという噂は耳にするが果たして実態はどうであろうか。
    二日目の最後に、スーパーマーケット「サンテラス」の2階で、地元の材料を利用した創作生け花の展覧会を拝見した。
    高齢者の作品群に感性の若々しさを感じただけではなく、その奥に島の人たちの生きることへの心意気と優しさと島を愛する気持ちと島民間の絆の強さを垣間見た。
    最終日は、また再び山間ロードを進み、那久というところにある壇鏡神社へと向かった。神社の鳥居を内側に移動させることで、神社の境内の範囲外にして、木材狩りを免れた大きな杉が鳥居の前に左右各一本はみ出すように立っていた。その鳥居をくぐって、細いだらだら上りの坂道を傍の小川や元気よく伸びた羊歯などを眺めながらゆっくりと上っていくと壇鏡の滝の雌滝が先ず目に入った。穏やかな表情をした慈悲の心を感じる滝だった。続いて落差が約50mの雄滝が顔を見せた。流れ落ちる水量は少なかったが見上げる角度に偉大な神を感じた。
    その下の屏風のような岩壁の中央に小さな神社の社殿があった。ここは日本の滝百選、全国名水百選に選ばれているだけあって、景観や水の表情が豊かで透明感があった。雌滝のところで清めた手にその水を掬い取って、口に含んでみた。水がやわらかで甘さを感じるほど美味しかった。長寿の水だ。社殿の横を上れば雄滝の後方に回り込むことが出来た。「裏見の滝」だという。しかしこの隠岐の地では、その様な表現はして欲しくなかった。高貴な人の遠流の地である。
    「裏見」は「恨み」に繋がり、イメージが悪い。例えば「後姿の滝」「拝啓(背景)の滝」「清めの滝」のような呼称にしたほうが、有難味を強く感じるし、隠岐の島独特の観光表現にもなって、観光客に強く好印象を与えるのではないかと思った。私は雄滝よりも複雑に流れ落ちてくる雌滝の方に魅力を感じた。
    静寂の中で雌雄両方の滝の音に心を研ぎ澄ませば、それは穢れた私の心に響く神の声のように聞こえた。もっと己を捨てて自然体で生きてみよと諭されているようだった。「壇鏡神社」や「壇鏡の滝」の石碑の傍に、もう一つ石碑があった。そこに山口誓子が詠んだ句、「捨て身とは 天より滝の 落つること」が彫られていた。その句がなぜか強く私の心に残っている。
     その後、地元の名家を尋ね、素晴らしい木造のお宅拝見となった。厚かましくも居間に上がりこんで、お茶やたけのこ、クッキーなど心温まるおもてなしを受けた。太い柱、広い玄関に見入ったが、家の裏の田園風景もまた長閑で見事なものだった。 
    その家全体に、初対面でも会話が弾んでゆく和やかな空気が満ち溢れていた。これがコミュニティツアーだと思った。はめ込みの家具、松やケヤキの古木を加工したテーブルなどを見せてもらって、名残惜しくも次へ移動した。
    「産直問屋しおさい」に行き、ものづくり体験教室、ひおうぎ貝のストラップ作りに挑戦したのだが、老眼の私には結構難しかった。隣接のアイランドパークで総務課長のお話を聞きながら大盛洋食ランチを懸命に頑張って完食した。大満足であった。課長にローソク島の夕日よりも、もっと美しい夕日スポットがパークの近くにあると教えていただいたので、いつの日か是非行ってみたいと思いつつ、西郷港に立ち寄り車いす利用者を拾って隠岐空港に向かった。
    今回観光できなかった島前海岸美散策や隠岐最大の景勝地「国賀海岸」、西ノ島の西海岸にある257mの絶壁「摩天崖」、巨大な岩の架け橋「通天橋」、東洋一の最長250mの洞窟を潜り抜けて、カリブより青い海に出合うという海食洞窟「明暗の岩屋」など 島前の「自然美探求」については、いずれ訪れてみたい。隠岐諸島は、周囲を圧倒する断崖の迫力と波や風雨に浸食された奇岩の数々が最大の特徴であり、そこには神聖な神々が宿っているように思えた。
    隠岐諸島には厳しい自然に立ち向かってきた島民たちの絆とそこから滲み出る優しい人情とが同居している。これは島民の強い仲間意識と暮らしの中の人情が醸し出す絆ではないだろうか。それは歴史を遡って、初めて理解できる。
    この4島には縄文時代前期には既に人々が住み着き、本土との間に活発な交流があったと石器や土器の研究から証明されている。古代には隠岐諸島をもって隠岐の国が置かれていた。
    昔から遠流の島として知られており、主な著名人としては、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、小野篁をはじめ、伴健岑、藤原千晴、平致頼、源義親、板垣兼信、佐々木広綱、飛鳥井雅賢などが流された。日本における流罪は、現在の刑法が制定された明治41年(1908年)まで存在していた。その罪の重さによって、近流、中流、遠流の3等級に分けられ、畿内からの距離によるのだが、基準として、近流は300里、中流は560里、遠流は1500里であった。これは唐の制度を参考にしたもので、一里は560mだったといわれている。
    中世には国府尾城(甲尾城)の隠岐氏が隠岐守護代として隠岐を支配した。隠岐守護は出雲の京極氏や尼子氏が兼ねたが本人が渡海することはなかった。近世は初期、出雲の中村氏や京極氏の分国であったが、後に幕府天領となった。天領の統治は出雲の松平氏が任された。結局、出雲も鳥取も幕府の藩制度の中では誰もまじめに隠岐を統治しなかったのだろう。それ以前に後鳥羽上皇や後醍醐天皇など高貴な人が隠岐に住みついて、島民と生活をしていた。この天皇への親近感が尊皇攘夷の思想をこの島に根付かせたのではないだろうか。この島に流された高貴な人物がお供の者たちと共に、新時代の権力者たちを恨みながらも、自らの高貴な生活を捨てて、島民の庶民的な暮らしの中に溶け込み、島民と一緒になって、暮らしを築きあげてきたのだろう。それが反幕府思想に繋がったのだろう。
    なんとしても生き抜いてやる。明日の復権を心に期して、辛い環境の中で粘り強く生きたひたむきさが風雪や波濤に負けず、力強く立ち向かっている奇岩の裏に見え隠れしているように思えてしょうがない。この隠岐諸島は神様の集落のようだった。 
    隠岐の島を去るに当たって、ご多忙中、ホテルまでご足労頂いた観光課の皆様と再びお話できるチャンスを願いながら、次に訪れる時は隠岐の島をもっと好きになってやろうと心に決めて、隠岐空港から15時05分発JAC便にて、伊丹経由のJAL便で帰路の空に舞い上がった。  ( 完 )

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